〜アドバンスド・ワールド・ペンティアム少女ドラマ〜
『アキバ大パニック!』その2
――千年王国の野望の巻――

 前回のあらすじ

 しがない専門学校生、北原リョウの所有するパソコン『ラナ』は、人類を守るための最終兵器『人型汎用ペンティアム少女ラナちゃん』として蘇った。だがアンビリカル・ケーブルの短さゆえにその行動は著しく制限された。ここに北原はラナちゃんの電源を確保するための延長コード導入を決意する。これによりラナちゃんの作戦行動半径は飛躍的に広がった。
 負けるなラナちゃん。行け行けラナちゃん!


 その日の朝も、僕は目覚ましの鳴る前に目がさめた。あったかくていい匂いが、僕を眠りから引きずり起こしたのだ。
 トントントン… と包丁の音がする。コトコト… と、お鍋の音が聞こえてくる。
「お早うございます、旦那」
 エプロン姿のラナちゃんが振り向く。
「あ、おはようラナちゃん」
「ちょうどよかった。朝ごはんの用意、できましたよ」
 僕はのろのろと起き上がり、ねぼけまなこをこすった。
 足の踏み場もなかった僕の部屋は、すっかり片付けられていた。自分の部屋の畳を見たのは何ヵ月ぶりだろう。
 いつもは雑誌やティッシュやカップ麺の入れ物で積木崩し状態になっていたちゃぶ台にはちり一つなく、お茶碗とお碗とお箸と湯飲み、それに香ばしい匂いの焼き魚が揃えられていた。
 歯をみがくのとカップ麺のお湯を沸かすのにしか使われていなかった、地獄のようなありさまだった流し台も、いまやステンレスはその本来の輝きを取戻し、その存在さえ忘れられていた鍋や包丁は嬉しそうな音をたてて復活を喜んでいた。
「ほうれん草とトマトが安かったんで、買ってきちゃいました。いつもカップ麺ばかりだと栄養かたよっちゃいますからね」
 ラナちゃんがコンロからお味噌汁の鍋をおろし、鍋敷き代わりの雑誌の上に置いた。
「今、ごはんよそいますからね」
「うん」
 僕はちゃぶ台の前に正座した。
「あ、どうしたんですか旦那」
 涙ぐんでいる僕をみてラナちゃんが心配そうに尋ねる。
「トマト、嫌いでした?」
「そうじゃないよ」
 僕は声をつまらせて言った。
「トマト大好き」
「よかった」
 ラナちゃんはにっこりする。
「じゃ、はいアーン」
「アーン」
 僕はラナちゃんが口に入れてくれたトマトをもぐもぐとほおばった。ちぇっ、トマトのやつ、なんだかしょっぱいや。
と、その時、ズザザザザ… と響きわたるスリッパの音!
「北原あ〜っ!」
 バーン! ドアを開けて入ってきたのは、わあっ! やっぱり先輩だあっ。
「せ、先輩!?」
「なんだかいい匂いにつられて来てみれば、なんというざまだ!」
 先輩はちゃぶ台の上の朝ごはんを見て感動に震えていた。
「これは、ラナ君の作った手料理… すばらしい。見事だ。ではさっそく試食を…」
「どうぞどうぞ、先輩さん」
「あ〜、せ、先輩! そ、それは…」
 言いおえる暇もなく、先輩は人間とは思えぬすさまじい勢いで僕の、僕の朝ごはんを平らげてしまった。
「いや〜、おいしかったよ」
「わあ、ありがとうございます。はい、食後のお茶を… あら?」
「ぐう……」
 食事を終えるや否や、先輩はいびきをかいて寝てしまった。
「あら、先輩さん、また寝ちゃいましたね」
 ラナちゃんはまめまめしく先輩のために布団を整える。
「ぼ、僕の朝ごはんがあ…」
 僕は放心状態で突っ立っていた。
「さあて、朝ごはんも食べてもらったし、おかたづけ、おかたづけっと」
 ラナちゃんは腕まくりなんかして、
「わあ、すっかり残らずきれいに食べてくれて、一生懸命作った甲斐があったわ… あ、旦那、ちょぉっとそこどいてくれますかあ。おかたづけの邪魔ですからね」
「ラナ… ちゃん… 僕の… 朝… ご… はん…」
 僕はもう神にも見捨てられた感じだった。たとえ神に見捨てられてもいいから、ラナちゃん、僕を見捨てないでえ…
「うそうそ、ちゃあんと旦那の分もありますから、ちょっと待っててくださいね」
「ほ、ほんとラナちゃん!? わーい」
 僕は涙も拭いてご機嫌だ。それにしてもパソコンにいいようにあしらわれてる僕って一体…

 僕の通ってる専門学校は、学校というにはちょっとばかり、結構、とんでもなく狭かった。グラウンドなんて贅沢なものはなく、形ばかりの校庭があるばかり。二階建ての校舎は見かけが綺麗なだけの安普請で、ぎっちぎちの教室にやたらと人数を押し込めている。そのくせ「一人一台」というのを売り文句にしているから狭い教室にパソコンばかりがでかい顔してのさばっている。それにしても今どきTOWNS使ってるなんて、信じられない貧乏学校だよなあ。唯一のとりえは家から近いというだけで、それだって僕がそういう所に下宿を探しただけの事だ。
「腹減ったなあ」
「そうか」
 早弁した小林と、そうでない僕は意見が合わない。
「早く昼になんないかなあ」
「そうやなあ」
 小林は僕の言葉なんかにまったく耳を傾けず、パソコンでお絵描きしてる。
「どうや、これ」
 小林の描いているのはラナちゃんだ。なかなか良く描けている。
「なあ、なんでラナちゃん連れて来んかったんや」
「そりゃ連れてきたかったけどさあ…」
 僕はまるで小林がなにもかも悪いかのような口調で言った。
「ラナちゃん、生徒でもなんでもないだろ」
「そんなん関係ないわ。ラナちゃんパソコンやないか」
「まあな」
「パソコンやったら、みんな持ってきてるやないか」
「でもラナちゃんは一応デスクトップだし…」
「石田なんか自分とこの286、持ってきて置いてあるやないか」
「あれはいらないから捨てに来たようなもんだろ」
 僕がラナちゃんを連れてきたくない本当の理由はほかにあった。
「もし、ラナちゃん連れてきたらどうなると思う」
「そら、もう、みんなの人気もんや」
 当然、と小林は言う。
「だろうな」
「そらそうや。法子であんなに人気あるんやで」
 と小林は、法子の方をちらっと見た。
 法子は石田と溝口のパソコンの画面を後ろからのぞきこんでひやかしていた。
 法子はうちのクラス唯一の女で、だから別に美人というわけでもないが当然もてる。毎日のようにクラスの誰かとデートしてる(ように僕には見える)。
「法子であんなに人気あるんやで、ラナちゃんなんか来てみい」
「どうなると思う?」
 人ごとだと思って小林はのんきでいいけど、僕はそうはいかない。
「いいか、ここにいる連中、みんなパソコンオタクばかりだぞ」
「人のこといわれへんけどな」
「そんなとこにラナちゃんが来てみろ。5分でバラバラにされちゃうぞ」
「…たしかに」
 小林は納得してしまった。
 そう、僕だって本当はラナちゃんを連れてきたい。パソコン好きの青少年なら誰だって自分のマシンを自慢したがるものだ。うちのはメモリが64Mも入ってるとか、バスクロック75MHzにしたとかしないとか、BIOSとっかえたら動かなくなったとか、サスはカヤバでキャリパーはブレンボでマフラーはモリワキだとか、とにもかくにも、自分のマシンを自慢してこそ健全なパソコンマニアといえるのだ。ましてや僕のラナちゃんなんか、朝起こしてくれるは、一緒に散歩してくれるは、おいしいお茶は入れてくれるは、ごはんも作ってくれるは、それに文句なしに世界一かわいい、この世でたった一人のペンティアム少女なんだぞ。くぉ〜れぇが、自慢せずにぃ、おれようかぁぁ。
 あ、昼休みのチャイムだ。購買でパンでも買ってくっか。いくら自慢したくても、当のラナちゃんがいないんじゃしようがない。今日のところはクラスの連中相手に、ラナちゃんの自慢話でもしておこう。
 その時僕は、校庭の方がなんだか騒がしいのに気づいた。
「なんだなんだ」
「誰だあの子」
「すっげー可愛い」
 みんな窓から身を乗り出して見てる。
 僕と小林は顔を見合せ、二人して窓に駆け寄った。
 見下ろせば、校舎の脇はもう見物人で人垣ができている。
 その人垣の中から、聞き覚えのある声が。
「あの、旦… じゃない、北原さん、いますか」
 あ、あの声はやっぱり!
「ラナちゃん!」
「あ、だんなあ!」
 人垣の間からラナちゃんが背のびして手を振った。
「どえぇぇ〜〜〜っっ!?」
 教室の中はどよめきの渦と化した。
「ラナちゃん、よくここ分かったね」
「はい、来ちゃいました」
 みんなはあっけにとられて、僕とラナちゃんを交互に見ている。
「き、北原のコレか!?」
「うそだろ〜っ」
「妹じゃねえの?」
「でもあいつの事、旦那って呼んでたぞ」
「おい北原、紹介しろ」
「仕方ないなあ…」
 僕はラナちゃんに叫んだ。
「ラナちゃん。クラスのみんなに自己紹介しちゃいなさい」
「みなさんはじめまして。私、ペンティアム少女のラナで〜す!」
「どえぇぇ〜〜〜っっ!?」
 クラスはまたまた騒然だ。
「え〜っ、てことは」
「君、パソコンなの!?」
「そうで〜す」
「え〜っ、じゃ、なになに、95も動くの」
「当然で〜す」
「え〜っ、え〜っ、すごい!」
「ね、ね、メモリどれくらい積んでるの?」
「僕の作ったプログラムあげるよ」
「BIOSのバージョン教えて」
 やはり僕らの予想どおり、ラナちゃんはたちまち人気者だ。
「旦那、今行くから待ってて下さいね」
「うん」
 ラナちゃんは唖然としている生徒たちを尻目に、元気良く校舎に入っていく。
 一瞬にして英雄になった僕は、クラスのみんなにダーッ、と囲まれた。
「なあなあ。あの子、本当に北原のパソコンなの?」
「可愛いだろ」
「いいなあ」
「いいだろ」
「え〜っ、じゃ、なに、あの子お前と暮らしてんの?」
「当然」
「なになに、じゃ、一日中一緒?」
「もちろん、昼も夜も」
「お前、まさか寝る時まで…」
「ふふふ…」
 って本当は一緒に寝てないんだけど、もうここまで来たら勢いよ。
「え〜っ、お前、そんなのありかよ」
「なんでもありだ」
「じゃ、ひょっとして料理や掃除や洗濯まで…」
「無論」
「おまけにパソコンだから…」
「そう、俳句もつくれるし」
「その気になれば…」
「似顔絵だって描いてくれる」
「おまけに可愛いくて…」
「シックもカジュアルもガーリィに着こなす」
「もう、言うことなしじゃん」
 僕はもう有頂天だった。
「はっはっはっ。ま、そうだね。欲を言えば、もう少し胸があれば…」
「胸、ですか…」
「そう、僕としてはもうちょっとおっぱいがこうボインボイン…」
 僕は自分の胸に手を当ててゆっさゆっさと揺らす真似をしていたが、背後から冷凍光線のような視線を感じて振り向いた。
「や、やあラナちゃん…」
 ツツーッ、と冷や汗が流れ落ちる。
「そうですね。やっぱ女の子は胸ですよね」
「な、なんだ。もう来てたのラナちゃん…」
「はい、さっきからずっと」
 ラナちゃんの声は機械のように冷たい。
「申しわけありません。ご期待に添えなくて」
 ラナちゃんはムスッとして、手に持った小さな包みを僕に差し出した。
「これ、旦那に食べてもらおうと思って作ってきたんですけど…」
「おお〜っ」
 僕が受け取るより早く、ラナちゃんはスッとそれをひっこめた。
「私みたいなウォッシュボードな女の子に作ってもらっても嬉しくないですよね」
「そ、そんな…」
「小林さん、こんなので良かったら、食べてもらえません?」
「そらもう喜んで」
 小林は降って湧いた幸運に、大喜びだ。
「おおきに。ラナちゃんはええ子やなあ」
「えへっ、ありがとうございます」
「胸の大きさなんか気にすることあらへん。ええか、女は胸やない。心や」
「わあ、小林さん優しいんだ」
「そ、そんな、ラナちゃん」
 僕はもう恥も外聞もなかった。
「僕が悪かったからさあ。お弁当おくれよ〜」
「あかん、これは俺がもろたんや… うわー、うまそうな三色弁当や。俺、三色弁当大好きや」
「あ〜、待て、待って〜。僕にも食わせて〜」
「もう、旦那ったら。じゃ、仲良く半分こしたらどうですか」
「やだ。全部ほしい」
「ラナちゃん。こんなやつにくれてやることあらへん。俺がありがたーくいただくわ」
「僕のパソコンが作ったお弁当だから、僕のだ」
「お前、いっちゃん先に嫌われるタイプやな」
「問答無用!」
 ガツガツガツ!
「あ〜、お前、そうくるなら負けへんで。この早食い小林に勝てるとでも思てんのか」
 ガツガツガツ!
 僕らがみにくい争いを繰り広げている間に、ラナちゃんは十重二十重の質問責めにあっていた。
「ラナちゃんって料理も作れるの? すごいね」
「ひょっとしてカロリー計算とかもできちゃうんだ」
「ねえ、今度俺にもなんか作ってきてよ」
「それより僕と今度アキバ行かない? いいパーツショップ知ってるんだ」
「ねえねえ、今度ベンチマークテストさせてよ」
「とりあえずBIOSのバージョンを…」
 僕はお弁当に舌鼓をうちながら、ラナちゃんに言い寄る男どもを追い払うのに余念がなかった。
「ああ、やっぱそぼろは鳥肉だよなあ… 駄目ダメ堀口君、ラナちゃん箱入りなんだから変なプログラム渡さないでくれるか… うーん、この卵焼きときたら、ラナちゃんいいお嫁さんに… おいおいそこの松井、ドライバー握りしめたままラナちゃんに近づくんじゃない…」
 まるでプールの監視員の気分だった。
 そして一方小林との死闘は続いていた。
「うあ〜、このたまご焼き最高や」
「ええい、させるかあ」
 あっちではみんなが言い寄ってる。
「ラナちゃんの肌って人間そっくりだね」
「ちょっと触っていい?」
「こら、触んな〜っ!」
 こっちでは小林が。
「うまいがな、これ」
「のおっ! こ、小林ぃ〜っ」
 あっちではみんなが。
「…それで、あいつとどこまでいっちゃったの」
「え、それはちょっと…」
「こら、なんて事聞くんだ!」
 って別に聞かれて困るような事してないからいいけど。
「いいじゃない。言っちゃいなよ。誰だってやってる事なんだから」
「はい… 実はもう、Bを通り越してCまで」
 僕は椅子からころげ落ちた。
「やっぱりそこまでいってるのか…」
「はい、最近はDまで…」
「で、で、Dまで!?」
 椅子に座りなおそうとしていた僕は再びころげ落ちた。
「それで将来どうしようかって、旦那といろいろ…」
「う、うそだ〜っ!!」
 僕はおがむようにラナちゃんを見た。
「ラナちゃん、お願いだ。嘘だと言ってくれえ」
「え、ひど〜い。旦那、この間の事、忘れちゃったんですか?」
 信じられない、という顔でラナちゃんは答える。
「うそだ〜っ! 僕は無実だぁ」
「北原、お前、なんてやつだ」
「人間じゃねえな」
 ラナちゃんは不思議そうだ。
「…そんなに大変な事なんですか、ハードディスクの増設って」
 ドド〜ン。
「ややこしい話すな〜」
 はっ、しまった。こんな事してる間に弁当はどうなった?
「ラナちゃん、料理の天才やな〜」
「あ〜っ!」
 小林から慌てて弁当箱をひったくったが、時すでに遅かった。
「あ〜、うまいけど、無理にかき込んだからお腹苦しいわ」
「はい小林さん、お茶」
「ああ、おおきに。優しいなあラナちゃんは」
「ラナちゃん、こんな奴にお茶出さなくていい!」
「もう旦那、そんなに怒んなくても…」
 ラナちゃんはサッ、と、赤いハンカチにくるんだ包みを差し出した。
「こんな事もあろうかと用意しておいた、予備のお弁当です」
「あああ…」
 この時、僕にはラナちゃんが天使に見えた。
「ありがとう真田さ… いや、ラナちゃん」
「お、今度のもうまそうやな」
「ええい寄るな〜っ」
 僕は後生大事にお弁当を抱え込んだ。先程の過ちを繰り返すわけにはいかない。ラナちゃんの監視とお弁当の保護。同時に二つをこなすのは不可能だ。残された道はただ一つ。弁当を究極の保管場所、僕の胃袋に退避させてしまうしかない。僕は全力で食べる事に専念した。野性動物のように聞き耳だけはたてて。
「ねえねえ、今度僕にもお弁当作ってきてよ」
「お前、おこがましいにもほどがあるぞ。それより僕に…」
「…あれ、どうしたのラナちゃん」
「大丈夫?」
 何!? 僕は飛び上がった。
「北原、それなしや、おい」
 僕は弁当箱を持ったままラナちゃんに駆け寄った。
「どうしたの、ラナちゃん」
 ラナちゃんは僕の顔を見て力なく微笑んだ。
「なんだか急に、眠くなっちゃっ…」
 ラナちゃんはそのままバタンと机につっぷした。
 そうか、ラナちゃんは朝早く起きて部屋の掃除や朝ごはんのしたく、それにお弁当まで作ってくれて疲れてるんだ。ありがとう、ラナちゃん。ごめんね、僕のために。
 僕はそっとラナちゃんの寝顔をのぞきこんだ。
 ラナちゃんは可愛い寝顔ですやすやと… ん?
「えっ…」
「どうした」
「ラナちゃん…」
「せっかく寝てるのに起こしたるなよ」
 なにげなくそういった小林は、僕が真っ青な顔で立ち尽くしているのに気づいた。
 僕は震える声で言った。
「…CPUクーラーが止まってる」
「!」
 僕は慌ててラナちゃんを揺り起こそうとした。
「ラナちゃん、ラナちゃん!」
 小林が、延長コードをたぐりよせて首を振る。
 それは完全にコンセントから外れていた。
「…ここに来たときにはもう外れてたんやろ」
「……」
 僕は、どうしよう、と小林を見た。
「電源入れたら直るやろ。多分…」
「でも、ひょっとしたら…」
「そう、ひょっとしたら、ハードディスク壊れたかもよ」
「見てみようぜ」
 ギクッ。気がつくとクラスのみんなはラナちゃんを取り囲んでいた。しかも手に手にドライバーを携えて。
「ちょ、ちょっと待って。まず電源を入れてみて…」
「いや、開けてみたほうがいいな」
「うん。開けてみたほうがいい」
「開けさせろぉ」
「中みせろぉ」
「コピーさせろぉ」
 ふらふらと、見境いなくみんなはラナちゃんにとりつこうとする。駄目だ。こいつらまるでゾンビだ。謎のスペックを秘めたパソコンを開けたいというオタクの本能が彼らを動かしている。僕はなんとか阻止しようとしたが多勢に無勢だった。
「小林、なんとかして…」
 うわっ、小林までが鉢巻きにドライバーと工具セットをはさんで、まるで生田神社に五寸釘でもうちに行こうかといういでたちだ。
「いっちょう、やったろかー」
 駄目だ。みんなラナちゃんを取り囲んで、もうバラされるのは時間の問題だ。こうなったら、もう最後の手段だ!
 僕は机に戻って弁当を食べはじめた。
「あー、おいしいな、ラナちゃんのお弁当は」
「む」
 みんなの耳がピクンと動く。
「むむむ、お弁当の中身は卵焼きにちくわのチーズ巻きに焼きたらこか」
 ごくっ、とみんながつばを飲み込む音がする。
「うわー、それになんとタコさんウインナーとうさちゃんリンゴまで入ってるぞ」
 ごくっ、ごくっ。
「ああ、でもなんてことだ。僕はラナちゃんの愛情でお腹がいっぱいだ。もう食べられそうにないや」
「なら、食わせろ!」
「食わせろ〜っ」
「俺にも一口〜っ」
 知識欲、分解意欲に勝る食欲の本能にたぶらかされ、みんな一斉に僕のお弁当に飛びかかってきた。よし、今しかない!
 みんながラナちゃんの愛妻弁当にたかっている間に、僕はラナちゃんに駆け寄った。ああもったいない。たとえ原始人でももう少しお上品に食べるだろう。僕は横目で愛妻弁当の最期を見とどけながらラナちゃんを抱きかかえようとした。
 よいしょ。だがぐったりとなったラナちゃんは意外に重かった。
「法子、頼むよ。手伝って」
「オッケイ」
 比較的冷静に事態を見守っていた法子は手を貸してくれた。二人でラナちゃんを両脇に抱えて、僕らはとりあえず教室を出た。屋上に上がる踊り場の、掃除用のコンセントにラナちゃんのアンビリカル・ケーブルをつないで、僕らはようやく一息ついた。
「助かったよ」
 僕は法子に感謝した。
「いいけどね」
 法子はいつものようにやる気のない返事だ。
「でもさ、あのままみんなにみてもらった方が良かったかもよ。みんな、ああみえても腕は確かだし」
「うん…」
「北原君は、この子の中身見てみたいとか、思わないの」
「…なんか嫌なんだ」
「ふーん」
「ラナちゃんはパソコンだけど、パソコンじゃないっていうか、なんていうか…」
「分かるけどね、なんとなく」
 法子はそっけなく頷いた。
「法子はどうなの? ラナちゃんを分解したいとか、思わなかった?」
「あたしは別に…」
 女ってやっぱり、そういうとこ男と違うんだなあ。
「それに私、ペンティアム少女の中身なんてどうでもいいもの」
「なんで」
「だってうちマックだから」
「あ、そ」
 シュルシュル… とかすかな音が聞こえる。ラナちゃんのCPUクーラーだ!
「う… ん…」
「ラナちゃん!?」
 壁に寄りかかったままのラナちゃんを、僕はゆっくり抱き起こした。
「あ、だんなあ…」
 ラナちゃんはぼ〜っ、と僕を見てる。
「大丈夫?」
「あ、法子さんも…」
 ラナちゃんははっ、としてあたりを見回した。
「そうだ、私、旦那にお弁当を…」
「もう、もらっちゃった」
 僕はせいいっぱい、優しい笑顔でラナちゃんをみつめた。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「そうなんだ。よかったあ…」
 僕はなんだか無性にせつなくなった。ラナちゃんを抱きしめたかった。だけど法子の手前、僕はただラナちゃんの髪をそっと撫でてあげるだけだった。
 ラナちゃんはそんな僕を不思議そうに見て、やすらかな顔で、僕に撫でられるままになっていた。

「まだ歩くのか」
「もうちょっとや」
「…本当にこんな所にあるんだろうなあ」
 こんな所、というのは東京でも有数の高級住宅街だった。なんでこんなに狭くて曲がりくねってるんだと思うくらい、道は入りくんでいた。それは一見、高級住宅街にはふさわしくないようにも思えたし、逆に一般ピープルを近づけないための迷路なのかもしれないと思った。狭い道とはアンバランスに、モデルハウスのような立派な家が立ち並んでいる。そしてそれに相応しい広い庭。塀は高くておまけにてっぺんには鉄条網やらガラスの破片が埋め込んである。貧乏人に対する挑発としか僕には思えなかった。そして止めてある車ときたら、まずベンツ以外にはおめにかかれなかった。
「もうちょっと早く来たら、桜がきれいかったんやけどな」
「そうなんですか」
 僕と小林とラナちゃんは、もう随分歩いている。小林もラナちゃんもちょっとしたお散歩気分のようだが、僕は桜どころではなかった。もうそろそろ着かないと、ラナちゃんの電源がもたない。
 学校が終わってすぐ、クラスのみんなの数々の誘い(魂胆みえみえ)を全て断ってわざわざこんな所に来たのはもちろんわけがあった。
「…本当に大丈夫なんだろうな」
「ああ、あいつやったら、多分」
 あいつ、とは誰か。『あいつ』だとしか僕には言えない。僕は『あいつ』の本名を知らないのだ。僕だけではない。同じクラスでありながら、いや、一応友達付き合いのある小林でさえ、どうやら『あいつ』の名前を知らないらしい。
 『あいつ』は滅多に学校に来ることはない。留年生かもしれない、という噂を聞いた事もある。『あいつ』は自宅でいろんなツールを作って、それをパソコン通信やインターネットにのっけて学費や生活費を稼いでいるという噂だ。ソフトに強いだけではなく、ハードの知識も生半可なものではないらしい。彼のパソコンはもはや原型をとどめず、増設に増設を重ね、一説ではスーパーコンピュータ並の速さだとか、CPUを20個並列に組み込んであるのだとか、そういう事が囁かれている。これも噂だが、その元々のパソコンは、あのマ○ポーシャらしい。とにかく、彼もまた伝説の男には違いない。
「ここや」
 小林に言われて僕は顔をあげた。その一角だけがういていた。うきまくっていた。区画整理の最中かと思われるような長方形の更地に、ポツンとおんぼろの二階建てのアパートが建っている。どういうわけだかそのだだっぴろい更地は焼け跡かなにかのように黒く焼け焦げ、あちこちに水たまりがあってじくじくとしていた。アパートの前に一本だけ突っ立った巨木は、のたうち回って天上を目指しているようにみえた。
「ここがあいつの家や」
 そこは『サティアン』と呼ばれていた…

「小林や、入るで」
「開いてるよ」
 小林のあとに続いて、僕とラナちゃんはその怪しげな部屋に足を踏み入れた。
 そこはまるでジャンクショップだった。さまざまな物が部屋中に雑然と転がっていた。配線、テスター、アンテナロッド、トランス、変換プラグ、モジュラージャック、006P、そのホルダー、セメント抵抗、回路図、トグルスイッチ、半固定抵抗、バリコン、漢字コード表、12桁LCD、関数電卓、SIMM、DIMM、BIOSのROM、キーボード、カプラー、ページプリンタ、太陽電池、分解されたHDD、ワニ口クリップ、コイル、マザーボード、感圧素子、オシロスコープ… この世のありとあらゆる役に立たないものがここに集結していた。80桁のパンチカードまで散らばっていた。何十冊あるのか見当もつかない『ラ○オライフ』が、それだけは整然と本棚に並んでいるのがなおさら不気味さをそそる。
「いてっ」
 なんか踏んづけてしまった。足の裏にささっているのは、
「うわ、CPUだ」
 ああ、もったいない。曲がってしまった486の足を直しながら、改めて床を見回すと、そこにもここにも、あらゆる種類のCPUがそこらへんに巻きびしのように散らばっている。ペンティアム、パワーPC、Cyrix、AMD、MMX、ペンティアムプロ… はては286や386、68やZ80まである。なんだこりゃ? K6じゃないか。こんなのもう売ってたっけ? 一般人から見れば粗大ゴミの渦のこの部屋が、僕には宝の山に見えた。ここまで来たのは無駄足ではなかったようだ。ここならば僕のささやかな願いどころか、世界征服も夢ではなさそうだ。
「何かよう?」
 サティアンの主はさっきからこうこうと光るディスプレイとにらめっこしたまま振り向きもしない。
「ちょっとな… 実はやな、パソコンの駆動時間をやなあ、なんちゅうたらいいんかなあ…」
 実は小林は日本語が下手だった。
「うちのクラスに北原っておるやろ。そいつのパソコンがやなあ、ちょっと普通やないんや」
「どうも、北原だけど」
 僕があとを続けた。
「うちのパソコン、デスクトップなんだけど、外に持っていけるようにしたいんだ。それでなんとか駆動時間を増やしたいんだけど…」
「結構、無茶苦茶な話だな」
 サティアンの主は、振り向きもせずに答えた。
「そやからお前に頼むんや」
「どんなパソコンなの。98? DOS/V? マック?」
「紹介するよ。僕のパソコン、ラナちゃん」
「はじめまして」
 ラナちゃんはペコリと頭を下げた。
 サティアンの主は、始めてこっちを振り向いた。彼は度の強い眼鏡をかけていた。
「や、やあ」
 そっけなくそう言って、彼はまたディスプレイとにらめっこを始めた。
「ラナちゃんは一応、無停電電源装置のっけてるんだけど、せいぜい10分ぐらいしか持たないんだ。ずっと家に閉じ込めとくのも可哀相だし…」
「僕の見たところ、その子はペンティアム166使ってるけど…」
 なんでそんなの一発で見抜くんだよ!
「とりあえず、それの換装だね。そこのK6使うといいよ。今より消費電力少なくて済むし、性能もアップする」
「い、いいの?」
 僕は思わずゴクリと喉をならした。最新鋭のCPUがもらえるなんて、ラッキー。
「え〜、それ困ります」
 と、ラナちゃん。
「なんで」
「だってそんな事したら、私、ペンティアム少女じゃなくて、ペンティアム互換少女になっちゃいます」
 あ、そうか。うむ。それは困った。
「じゃ、CPUクーラーの付け替えだね。確か、君の場合、オリジナルはヒートシンクだろ。元に戻せば、気休めくらいにはなるよ」
「それも困ります」
 ラナちゃんはおでこをおさえた。
「このCPUクーラー、旦那に買ってもらった宝物だもの」
 だいたい、おでこにあんなごついヒートシンクなんかつけてたらラナちゃんのかわいいイメージがガッタンだ。それに前髪がチリチリになっちゃうよ。
「じゃ、ハードディスク外すのは? 二つともとは言わないけど、一つ外せばかなり違うよ」
「お前、ラナちゃんのハードディスク二つって、よーわかったな」
「音でね」
 やはり彼はただ者ではない。
「それ、いいですね。そうしましょ」
「駄目〜っ」
 今度は僕が反対する番だった。
「なんで? すご〜くいい考えだと思いますけど」
「駄目ったら駄目〜っ」
 あの中には僕の大事な大事な、大事な大事なHゲーコレクションが入ってるんだぞ。何がなんでもそれだけは死守せねばならん。
「じゃ、あとはマザーボードから換装するしかないけど…」
「ぜ〜ったい」
「嫌だ」
 ラナちゃんと僕とは異口同音に叫んだ。
「…だろうね。じゃ、なんとか電気の供給量を増やすしかない」
「やっぱ、無理か?」
 僕はいつの間にか正座して、サティアンの主の神託を待っていた。
「…なんとかなると思うよ」
 あっさりと彼は言った。
「今ここにある部品じゃ足りないから、今日中に、知り合いに連絡してみるよ。うまくいきそうだったら、小林に電話入れるから」
「ほ、本当?」
「頼むわ」
「ただ、時間かかるかもしれないし、それにお金も結構かかるかもしれないけど」
「お願いするよ」
 僕は二つ返事で答えた。
「じゃ、僕、取り込み中だから…」
 サティアンの主は、何事もなかったように、またディスプレイを見ながらキーボードを叩き、自分の世界へと戻っていった。
「ほな、帰ろうか… じゃあな」
「頼むね」
「お願いします」
「あ、ああ…」
 またチラッと、彼がラナちゃんの方を振り向いたのが妙に気になった。
「あ、ああ小林。ちょっと」
「なんや」
「ちょっと話が… すぐ済む」
 僕らはなんとなく気配を察して、ラナちゃんと二人して先に外に出た。

 僕とラナちゃんはアパートを出て、傍らの巨木を見上げながら、話すともなしに話していた。
「旦那、いつもいつもごめんなさい。私のために」
「なに言ってるの」
 僕はラナちゃんにそう言われるのが辛かった。
「僕はね、ラナちゃんのためにいろいろしてあげるのが好きなんだ」
 自分でも気づかなかったラナちゃんへの気持ちが口から湧いてきたことに、僕は自分で驚いていた。
「ラナちゃんだってそうだろ。今日だってご飯作ってくれたし…」
「ええ。だって私、旦那にいろいろしてさしあげるの、好きだから…」
「ほらね」
「ほんと、おなじだ。ふふ…」
「だからさ、ラナちゃん。そんなこと気にしないで、もっともっと僕に甘えてね」
「うん」
 ラナちゃんは素直に返事した。だけど僕はすっかり晴々とした気持ち、というわけにはいかなかった。それでなんだか、ラナちゃんの顔をまっすぐに見れなかった。
 今日、学校で電気が切れたラナちゃんは、僕にお弁当を渡してくれた事をすっかり忘れてしまっていた。ハードディスクに書き込まれなかった記憶がメモリーの中で蒸発してしまったに違いない。パソコンにはよくある事だ。だけどラナちゃんがそんな事になって、僕はショックだった。
 パソコンなんだ。こんなにかわいいのに。パソコンなんだ。人間とそっくりの恰好をしてるのに。そんなの、分かってるはずの事なのに…
 だから小林に頼んで『あいつ』を紹介してもらった。もう、今日みたいな事は繰り返したくなかった。とにかく、ラナちゃんに何かしてあげたかった。たとえそれが気休めに過ぎなくても。
「北原、ちょっと」
 小林がアパートから出てきた。
「これ一緒に降ろしてんか」
「なんだそれ」
「発電機や」
 たしかに、それはオレンジ色の大きな発電機だった。屋台のおじさんが使ってるような、ガソリンだかなんだか燃やして発電するやつだ。
「あいつがな、とりあえずこれ使っとけって、貸してくれたんや」
「なんでこんなの持ってるんだよ〜!」
「さあな」
 しかし、とにかくこれで帰り道の電気の心配はなくなった。
「サティアンさんって、優しいんですね」
「あいつの名前、そんなじゃないって」
「怒るであいつ」
「あ、ごめんなさ〜い」
 だが僕らがほっとしたのもほんの束の間だった…

 ボボボボボ…
 僕と小林とラナちゃんは、顔を真っ赤にしてうつむいて歩いていた。
 ボボボボボ…
 小林と僕とでオレンジ色の大きな発電機を押し、ラナちゃんはそこから伸びたアンビリカル・ケーブルで電気をもらいながら、そうして三人で高級住宅地のど真ん中を歩いていく。この恥ずかしさときたら、実際にやった人間でないと分かるまい。
 ボボボボボ…
「旦那あ…」
 ラナちゃんが、なさけない顔で僕を見る。
 ボボボボボ…
「何もいうな、ラナちゃん」
 僕だってなさけなかった。穴があったら入りたい、とはまさにこの事だった。
「なあ、見たか小林、さっきのおばちゃんの顔」
「ああ、見た」
「あのおばちゃん、ベランダからこっち見て、こ〜んな顔、してたな」
「おお、そ〜んな顔、してた」
「まるで警察に通報しそうだったな」
「おう、ほんまに来るんちゃうか、ポリさん」
「来たらどーする」
「そーやな。いま田植えしてますねん、ゆーたらどないや」
「じゃ、私、苗植える真似してましょうか」
 それじゃ本当に留置所行きだぞ、と思った。
「…いいなあ、君たち、幸せで」
「んなわけないやろ。俺かて恥ずかしいわ」
「ねえ旦那。私の電気、もういいですから、黙って普通に行きましょうよ」
「でもなあ、そういうわけにもなあ…」
 ボボボボボ…
「そうや、サティアンからお前にことづてがあったんや」
「あいつ、そういう名前じゃないだろ」
「あ、そうか。つい…」
 ボボボボボ…
「あいつの計算やと、ラナちゃんの改造に大体5万か、それぐらいはかかるらしいぞ」
「そんなに?」
「お前、金持ってるか?」
 その問いに対する僕の答えは常に一つだった。
「ない」
「やろな」
「小林ぃ、貸して」
「無茶言うなや」
「利息もつけるよ。そうだ、僕の履いてるこの…」
 と、僕は自分の靴を指さした。
「このエアマックス! あげるからさ」
「あほ、そんなもんいるかい! お前のエアマックス、メイドインチャイナやないか」
「うっ…」
「大体、お前の履いてた靴なんか、本物でもいらんわ」
「えらい言われ方だね」
「でな、あいつがな、金なかったらそれでもええ、って言いよったんや」
「なんだそれ」
 そういうのって、一番危ないんだよな。
「あいつはソフト作ってそれ売って、結構もうけてるらしいからな… で、金はいらんから、その代わりに」
「その代わりに?」
「ラナちゃんとデートさせてほしいんだと」
「えっ」
「えっ」
 ボボボボボ…
「デート、ですか…」
 ラナちゃんの顔色が曇る。
「おかしいな… あいつ、噂だと、女の子に興味ないとか…」
「生身の女の子には、や」
 小林が訂正した。
「そういう事か…」
「そういう事や…」
 僕と小林は二人して、はあっ、とため息をついた。
「ラナちゃんは正真正銘、本物のパソコン、ペンティアム少女やからな。あいつ、一目惚れらしいわ」
「うん…」
「ま、一応そう伝えといてくれっていう事や。しばらく考えといてくれ」
 僕はラナちゃんを見た。
 ラナちゃんも僕の方を見た。ラナちゃんは、困ったような顔をしていた。悲しそうな目をしていた。
 ボボボボボ…

 僕とラナちゃんはようやく家に帰った。
「遅くなっちゃったけど、今から夕ごはんのしたくしますね」
「ああ、いいよラナちゃん。今日は疲れたろうし、ゆっくり休んでて」
「でも…」
「たまには僕が作ってあげるよ」
「え、旦那が? なんか、嬉しいような、怖いような…」
「大丈夫、まかせといて」
「…まさか、カップ麺じゃ」
 ギクッ。
「そ、そんなわけないだろ」
 当たらずとも遠からず。でもインスタントラーメンも料理には違いあるまい。
「…私、構いませんよ」
「だからカップ麺じゃないってば」
「そうじゃなくて」
「え、なんのこと」
「私、サティアンさんとデートしても… 構いませんよ」
 僕は黙ってお鍋に水を入れて火にかけた。心の中で、ラナちゃんになんて言ったらいいか考えてた。
「私、ちっとも気にしてませんから」
「本当?」
「本当」
「ラナちゃん、こっち見て」
 ラナちゃんは僕を見て笑顔を作った。
「駄目。顔がひきつってるもん」
「ひきつってません」
「大丈夫。ラナちゃんは心配しなくていいの」
 僕は口からでまかせを言った。
「僕にいい考えがあるから」
「本当!?」
「ほらほら、その顔その顔」
「えへっ」
 ほんと、その屈託のない笑顔を見てると、こっちまで笑顔になってしまう。ラナちゃんのこの笑顔を失うくらいなら、他の全てを失うほうがずっとましだ。
 失うもの…
 あった。僕にはまだ『失うもの』があった。
「僕にまかせといて、ラナちゃん」
「はい…」
「僕にいい考えがあるから…」
 僕はつぶやくように、同じ言葉を繰り返していた。そう。僕にはかけがえのない大事なものがまだあった。ラナちゃんの笑顔にみあうだけの大事なものが。あれを失う事は、身を切るより辛い。だけど、だけど…
「旦那…」
 いけない、僕がこんな深刻な顔してちゃ。ラナちゃんには心配かけたくないのに。
 僕は笑顔を作って言った。
「どうしたのラナちゃん」
「旦那。お湯、ボッコボコですよ」
「あ、あああ!」

 いったん「おやすみ」を言って電気を消して布団に入って、僕はラナちゃんが眠るのを待っていた。待ちながら、僕は何度も同じことを考えていた。
 そうだ。やっぱりあれしかない。あれをサティアンにくれてやるしかない。彼は間違いなくあれに飛びつくはずだ。だけどあれをくれてやるのはあまりにも…
 僕はいまだに決心がつかなかった。ラナちゃんはもう寝入ったろうか。
 僕は布団を出て、ラナちゃんを起こさないようにそっと部屋の押入れを開けた。たんすの一番下の引出しの一番奥を手で探ると、確かな感触があった。静かに丁寧に僕はそれを取り出した。紫色の布できちんとくるまれたその細長い包みをほどくと、中から木の香りの漂ってきそうな桐の箱が現れた。それをありがたく頭の上におしいただき、うやうやしくその箱を開けた。だがやはり部屋が暗すぎて箱の中身が見えない。僕はそっと、そ〜っと部屋の電気の豆球をつけた。
 ふとラナちゃんの顔をのぞきこむと、シュラフから顔だけ出して寝ているラナちゃんは人形みたいにかわいくて、僕は思わずその寝姿にみとれていた。
「…旦那」
 ラナちゃんが目を開ける。
「…ラナちゃん、起こしちゃった?」
「ずっと、起きてました」
「あ、そうなの…」
 ラナちゃんは上体を起こした。
「…なんですか、あれ」
 僕の部屋に不似合いな桐の箱は、当然ラナちゃんの目にとまった。
「刀!?」
「いや、巻物みたいなものだよ」
 僕はその箱の前に歩み寄った。
「ラナちゃん、ごめん。ちょっと向こうむいててくれるかな」
「…はい」
 僕は箱の中から、ビニールに包まれた巻物を取り出した。そしておもむろにビニールを取り、それを広げた。これにじかに触れるのは何度目だろう。まだ数えるほどしかなかった。僕はもったいなくて部屋に飾る事のできなかったそれを、じっと目に焼き付けた。これが今生の別れだ。
「これをサティアンに譲ろうと思うんだ」
 僕は再びそれをビニールに包み、箱にしまいながら言った。いまさらラナちゃんに隠しとおせるはずもなかった。
「え、でも、なんか大事な物みたいだし…」
「うん。僕の宝物、だった…」
 僕は手際よくその箱を布でくるんでいった。
「でも、僕にはもっと大事な宝物があるから」
 僕はにっこりしてラナちゃんをみつめた。
「え…」
「宝物は、ひとつあれば十分だから」
「でも…」
「言っただろ。僕はね、ラナちゃんのためにいろいろしてあげるのが好きなんだ」
 ラナちゃんはそっと頷いた。
「…ありがとう」
「お礼なんていいっこなし」
「うん…」
 僕らはどちらからともなく、顔を近づけていった。
「ラナちゃん…」
「旦那…」
「えしぇえしぇしぇしぇ!」
「うわ〜〜っ!!」
 僕は心臓が飛び上がるほど驚いた。鋭い視線に気づいて窓の外を見ると、
「ラ〜ブコ〜メ〜」
 外の小道でこっちを見ているのは、いつぞやのラブコメばばあ!
「ラブコメは、カーテン閉めて窓閉めて」
「う、うるせ〜!」
「ふぉっふぉっ、若いのお」
 恐怖のラブコメばばあは、手に拍子木を持って行ってしまった。
「ラブコメ用心、火の用心…」
 僕とラナちゃんは、あぜんとしてその後ろ姿を見送っていた…

「こ、これは…」
「…凄い」
 僕の部屋に訪ねてきたサティアンと小林は、ため息をついてかわるがわる、それをながめ、ながめてはまたため息をついていた。
「いいのか、こんなのもらっちゃって…」
「ああ」
「北原、考え直したほうがええんとちゃうか。もったいない」
「いいんだ」
 『三鷹市ポスター』。裏の世界でそう呼ばれる逸品であった。
「その代わり、ラナちゃんとのデートの事は…」
「うん、分かった…」
 サティアンはそれを丁寧に巻き、ビニールに包み、箱に入れ、うやうやしくおがんで布に包んだ。
  ものの価値を知らないラナちゃんは、僕たち三人の行動を不思議そうに見守っていた。
「…で、これが約束の品」
 サティアンはそれと入れ代わりに、ポケットから小さな包みを取り出し、僕に手渡した。
「これが? 思ってたより全然小さい」
「コンパクトなほうがいいだろ」
「うん… それに軽い」
「知り合いにメーカーの人間がいてね。リチウムイオン電池の試作品をもらって作ったんだ」
 包みを解くと、巻き寿司を三本、俵みたいに積み重ねたような形をしていた。
「それで30分は確実にもつ。多分、一時間くらいもつんじゃないかな。アタッチメントになってるから簡単に取り付けできるよ」
「ありがとう」
「さすがやな」
 僕らはさっそく、それを『S2機関』と名付けた。
「まず大丈夫だと思うけど、何かあったら連絡して」
「分かった」
「他にも、その、ラナちゃんの事で何かあったら言ってきてよ。相談にのるから」
「うん」
「ありがとうございます」
 ラナちゃんにお礼を言われて、彼はまた少しはにかんだ笑いを見せた。
「…そうだな。北原にはもうこのポスター、必要ないのかもな」
 こうして取引は終わった。
「ほな、そろそろ帰ろうか」
「じゃあな北原」
「うん」
 小林とサティアンをドアの所まで見送って部屋に戻ろうとすると、サティアンのつぶやきがかすかに聞こえてきた。
「いいなあ、北原のやつ… いいなあ」
「ほんまや」

「どうですか旦那」
 S2機関をつけたラナちゃんがクルッと一回転してみせる。
「うん。全然目立たないよ」
「よかったあ」
「よかったね、ラナちゃん」
 とにかくひとまず、これでやれやれだ。
「ところで旦那、『えすつーきかん』ってなんですか」
「え〜っ! ラナちゃん、知らないの?」
「はい」
「そんな事も知らない子は、このビデオで特訓だ!」
「はいっ」
「そうだ、その意気だ。努力と根性を忘れるんじゃないぞ!」
「はい、コーチ!」
 夜は更けていった…

 (続く)


トップメニューへ   小説メニューへ   第三話を読む

inserted by FC2 system